2019年7月
より一層充実した内容でリニューアルしました。
保津川遊船様売店にて好評販売中!(税込500円)
最終ページにはこのような鳥瞰図も入りました。
ダイナミックに蛇行する川の様子がよくわかります。
かつて、保津川には丹波山地で切り出された材木を、京の都へと運ぶ筏流しが盛んに行なわれていました。
この筏で運ばれた材木で京の都を造営し、暮らしを支えてきたのです。筏流しはやがて舟下りに姿を変え、現在では「保津川下り」として多くの人に親しまれています。深い淵あり、激流あり、四季を移して流れる保津川の渓谷を縫って、丹波の国「亀岡」から京の名勝「嵐山」までの約16キロ、2時間の自然と触れ合う船旅です。
丹波高地に源を発し、山間をめぐりめぐって園部から亀岡市に至り、再び山間の峡谷16kmを流れて天下の名勝嵐山につき、鴨川と合流して淀川に入る。この川の亀岡から嵯峨嵐山(京都市右京区)までを保津川といいます。
川の両岸には累々たる山、その高峰に京の愛宕山がそびえ、川が右に左にと谷間を縫って曲るたびに、舟の前に後にと見え隠れします。岩山・松山・雑木山、桜に新緑、紅葉と、自然は四季を通じてさまざまの顔を見せ、流れは激流あり深渕ありで、きわめて変化に富んでいます。四季ごとの風情と醍醐味が味わえるこの保津川下りには、年間約30万人の観光客が訪れ、その自然美とスリルを満喫しています。
川中には流れをさえぎるかと思われる大岩・奇岩巨石が点在、その一つ一つにえもいえぬ趣があり、物語をもって伝えられています。大高瀬、二股の瀬、殿の漁場、女渕、烏帽子岩、鎧岩、かえる岩、書物岩、ライオン岩などです。蛇行する度にその姿を変える保津川の風景。春 桜・川風に散る花吹雪、夏 岩にさくつつじ、秋 紅葉する山々、冬 お座敷暖房船から見る雪の峡谷 その姿は多くの人々の目をとらえて離さないのです。
毎年恒例、春のオープン船開幕行事。保津川下りのシーズン到来です。まだ肌寒い中地元の人々も大勢参加し、楽しいイベントも開催されます。今年も舟の運行の安全、船頭総勢の安全を祈願します。
愛宕山が雪化粧をした寒空の下、オープン船開幕を迎える事ができました。
お座敷暖房船に風船を詰めて出航の合図を待ちます。6隻に分乗されたお客様が嵐山へと向かいます。この光景は、いつみても感動させてくれます。今年も船頭一同「安心、安全」をモットーにお客様に保津川下りに又行こうと思って頂けますよう精一杯頑張ります。(2011年3月「船頭ブログ」より)
丹波山地から切り出された良質の天然木は、古くは長岡京・平安京造営のための材木として使用されていました。その材木の運搬手段として、筏を組み、桂川を流したのが筏流しの始まりです。室町末期、京都で消費される材木のほとんどが丹波材でまかなわれるようになり、保津川の水運はますます発展していきました。1606年(慶長11年)、嵯峨の豪商であった角倉了以※は幕府の許可を得て世木より嵯峨までの水路を開きます。これにより舟運も可能となり、主に米殻などが運ばれるようになりました。
平安時代以前 (長岡京に都があった時代)784年〜794年 長岡京遷都に使用する材木を筏流しで運搬する。 室町・鎌倉時代
筏問屋の出現 江戸時代保津川の開削工事が積極的に行われるようになる。 1606年(慶長11年) (慶長11年)角倉了以が幕府の許可を得て世木より嵯峨までの水路を開く。 1664 年(寛文4年) 亀山運上山本村の御用掛問屋が行っていた筏流しの取り締まりを亀山藩が行うことなる。 幕府への運上木として一筏につき20分の1の原木を徴収(運上税)した。 明治時代1899 年(明治32年) 京都鉄道が開通 昭和・平成1606年(慶長11年) 阪急電鉄が一時経営 1973年(昭和48年) 保津川遊船企業組合設立 1991年(平成3年) 嵯峨野観光線・トロッコ列車運行開始 1993年(平成5年) 船頭採用が代々受け継がれてきた世襲制から一般公募となる。 2011年(平成23年) 新乗船場の営業を開始 |
『京都府南丹広域振興局 京都・保津川の筏流しの歴史』より抜粋
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