カタロゴ京都ロゴカタロゴ京都は、京都の企業・組織・お店・学校などの歴史を、写真を中心に一冊の本にまとめたもの。
懐かしい写真とともに伝統と歴史をコンパクトで美しい冊子に仕上げます。

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歴史編纂誌制作
長い時の流れを経て、現在へと引き継がれている物語が数多くあります。
歴史を語り継ぎ、次世代へと記録を残していくのは今を生きる私達の使命です。
カタロゴ京都は地域の歴史を冊子にまとめるお手伝いを致します。

 ●カタロゴ制作例
 「長岡京市ふるさとガイドの会」様とのタイアップ企画で制作しました。

よみがえる長岡京 〜幻の都から実在へ 日本の歴史を変えた中山修一〜

長岡京市ふるさとガイドの会  http://www.nagaokakyo-guide.jp
 
よみがえる長岡京

1200年前、わずか10年の間 長岡京という都が存在した

長岡京は、延暦3年(784)から延暦13年(794)まで山城国乙訓郡、現在の京都府長岡京市、乙訓郡大山崎町、向日市、京都市西京区に存在した日本の首都でした。
平城京から北へ40km。桓武天皇の命により遷都して造営された東西4.3km・南北5.3kmに広がる広大な都でした。長岡京の近くには桂川や宇治川、木津川という3本の大きな川が淀川となる合流点があり、全国からの物資を船で効率よく運ぶことができました。水運の良さに加え、山陽道・山陰道とのかかわりから陸上交通が発達し、多くの人びとが訪れにぎわっていました。ところが、遷都からわずか10年で平安京へ都が遷され、廃都となります。わずかな期間に幕を閉じた“幻の都”長岡京は、やがて人々から忘れ去られ歴史の舞台から姿を消しました。
 しかし、昭和29年(1954)高校教員であった中山修一氏によって、その存在が立証され、完成度の高い都であったことが徐々に明らかになってきました。

 

長岡京はどんな都だったのでしょう?

ガラスの頭脳Glass Brain出展風景 長岡宮大極殿・朝堂院復元模型 (提供:向日市向日市文化資料館)    

■時 代:「延暦3年(784)11月11日~延暦13年(794)10月22日までの都
■場 所:現在の長岡京市、向日市、大山崎町および京都市の三市一町にまたがっています。
■規 模:平城京「奈良」、平安京「京都」に匹敵する広さ東西4.3Km 南北5.3Km
■完成度:
朝廷の宮殿や貴族の屋敷は完成し、一部は新築した物を改築した形跡も残っています。政治の中心である大極殿(だいごくでん)、朝堂院(ちょうどういん)などは向日市域に、市(いち)などの経済の中心は長岡京市域に、また、都の玄関口にあたる港(津)は大山崎町と京都市伏見区淀付近にありました。条坊(じょうぼう)制によって整然と区画され、碁盤の目に作られた街の通りや側溝は80%完成し、民家も1万数千棟以上は出来ていたと推定されています。東・西の市場もあり、にぎやかな庶民の営みがありました。その頃の人口は10万人以上といわれています。また、延暦11年には『お葬式が派手過ぎるので慎むよう』との高札が出るほどにぎわっていたといいます。

 

長岡京の人々の暮らし
長岡京の北西で湧いた豊かな水は、緩やかな斜面に作られた都の中を 南東へ流れ、人びとの暮らしを支えました。

■水陸交通網の発達した都
長岡京は交通の便が非常に良い場所でした。北方は丹波路から山陰道へ、南方は山陽道へ、東方は横大路を経由して東海・北陸道へとつながっていました。また、山崎、淀には港を整備し、船による大量の物資を運び込むことができました。
■丘の上に造られた都
長岡宮は高台の、大極殿から京域を見渡せる場所に造られました。宮内には大極殿・内裏・朝堂院などの建物が建てられました。黒い瓦、白い壁、朱塗り柱の長岡宮は丘の上にそびえ立ち、その荘厳な美しさは、都のどこからでも見え、長岡時代の人々は毎日敬意を持って宮殿を仰ぎ見たことでしょう。
また長岡宮は、遠く比叡山や生駒山の山麓からも見えたといわれています。
■貴族の食事
主食は米で、白米・玄米・もち米などが近隣諸国から納められました。麦や大豆もあり、おかずとなる食材は、野菜は家庭菜園や市でまかなわれ、その他、様々なものが各地から宮殿に運ばれていました。
鹿の乾肉 ・・・山梨、熊本などから
あわび ・・・佐渡島、栃木、千葉から
くらげ・・・ 岡山
かき・・・ 三重
ウニや蘇(古代のチーズ)、清酒やどぶろくもありました。
イラスト1 イラスト2 イラスト3
 

ひとりの学者の熱意が日本の歴史を塗りかえた
よみがえる“幻の都”長岡京

中山修一氏写真 会昌門の発掘現場にて-昭和30年-(提供:長岡京市教育委員会)   乙訓寺の現場にて-昭和41年-  
( 提供:長岡京市教育委員会) 

発掘・実証の功労者
中山修一先生

長岡京は文献上だけの“幻の都”とされていましたが、高校教員であった中山修一先生が数人の仲間と共に発掘調査を行い、その実在を証明しました。中山先生が長岡京を研究するきっかけは、『乙訓郡史』の執筆依頼で、執筆を機に長岡京の研究に没頭しました。 長岡京は平安京と同様に碁盤の目のように区画されていたことを確信していた先生は、昭和29年に長岡京の発掘調査に初めて着手し、翌年に長岡京朝堂院会昌門跡(ちょうどういんかいしょうもんあと)を発見しました。以後、小安殿、大極殿跡など重要な遺構を次々と発掘し、長岡京中枢部の全容を明らかにしました。長岡京は、平城京、平安京とともに三大古都の一つとも言われ、現在も2000回を越える発掘調査が続けられています。  中山先生の存在が重要なのは、発見の事実と同時に時代のタイミングです。この時期に彼がいなければ住宅開発が進み、ビルが建ち、道路ができ、発掘調査などは出来ないまま、長岡京は永久に“幻の都”となっていたことでしょう。

 

発掘調査によって少しずつ明らかになる長岡宮の姿

1960年代の高度経済成長期、乙訓地域にも急速な宅地開発の波が押し寄せていました。しかし中山先生の熱意によって市民の理解と協力を得ることができ、長岡京跡に埋もれている文化財の発掘調査が行われるようになりました。志伝(しで)夫人をはじめ、多くの人々の応援に支えられ、長岡京は姿をあらわしました。いまや長岡京は日本を代表する遺跡となり、日本の都を研究する上で欠くことのできない遺跡となっています。

JR長岡京駅前発掘現場 JR長岡京西前発掘現場 (提供:長岡京市教育委員会)   
 
『中山修一という人がいなければ、彼が行動しつづけることがなかったならば、現在の長岡宮・京の調査・研究はあり得ませんでした。ひとりの人間の情熱と行動とがこれほど大きな成果を生み出すことがある、という事実は人に勇気を与えます。日本の文化財保護の歴史の中で中山修一さんの名は不滅です』
                              ( 佐原 眞・元国立歴史民俗博物館長 )

長岡京市立 中山修一記念館

中山修一記念館中山修一記念館入り口と銅像               中山修一記念館外観                        

平成14年9月1日、故中山修一先生のご遺族により寄付された土地及び建物を利用し、中山修一記念館が開館しました。
先生の足跡と功績、発掘調査研究の成果を一目で見られる記念館として整備され、先生の数千冊の蔵書が閲覧できます。
またガイドが常駐し、ていねいな解説を行っています。
開館日 午前10時から午後4時まで(休館日/火曜日・年末年始『12月28日~1月4日』)
所在地 京都府長岡京市久貝3丁目3番3号 
電 話 075-957-7176
http://www.city.nagaokakyo.kyoto.jp/contents/ctg24.html

 
よみがえる長岡京「幻から実在へ 日本の歴史を変えた中山修一」  発行/2012年12月21日

発行元:
長岡京市ふるさとガイドの会  http://www.nagaokakyo-guide.jp
協 力:
長岡京市教育委員会公益財団法人長岡京市埋蔵文化財センター向日市文化資料館